英語の難しさ

MBA留学することになり、その準備のために再度英語の勉強をし、そして実際に留学してから1年半くらい経つわけですが、いまだに英語はいまいちという気がします。少しは上達するかなぁ、と淡い期待を抱いてはいたものの、その期待は見事に裏切られているのかなぁ、という気がします。
もちろん、こちらに来た当初と比べれば、それでも多少なりとも上達したのかなぁ、という気もします。英語力がついたというより、英語のコミュニケーションに対して度胸がついた、と言った方が適切かもしれませんが。松本大さんがご自身のコラムで、まさにぼくが以前から感じていたことを書かれていたので以下ご紹介します(一部引用にしようかとも思ったのですが、それほど長くないので全文引用させて頂きます)。

英語 <松本大のつぶやき>
2007年11月06日
 私は嘗て英語がとても苦手でした。今も、世間的には得意な方に分類されるようになったかとも思うのですが、自分としては引き続き大きな弱点で、コンプレックスを感じています。嘗て、なんとか一応のコミュニケーションが出来るようになった頃、当時の会社の同僚や上司に、「英語上手いね。」と云われ、私が「いや、英語では自分の考えていることの70%しか表現できないんだ。」と返すと、「ノー、ノー、ノー。お前の英語は完璧だよ。100%理解できるよ。」と答えられ、自分の70%をして100%と認識されていることを知り、なんとも悲しいと云うか、無力感を憶えた日々を今でも鮮明に憶えています。
 そしてその気持ちは、今でも基本的に変わりはありません。週末にマーク・トウェインの短編集を買いました。ペーパー・バックの、簡単な内容のもので、アメリカ人であれば恐らくみんなよく知っている話であり、小学生でも読める本でしょう。しかしたった3ページくらいの短編の中にも、5つぐらいは知らない単語が出てきます。これが私の実力です。話し言葉であれば、日常生活で使う言葉の延べ使用数の中では、恐らく知らない言葉は1%程度で、ユニーク単語数で云うと、直感で云って3%ぐらい知らない言葉があり、普段はアメリカ人は使わないが必ず知っている言葉で、本の中や、或いはちょっと畏まった場面、スピーチやちょっと気を利かせたことを云う場合に使う言葉となると、さぁどうでしょう、10%ぐらい知らないと思います。この少し知らないことが、人の雰囲気、重み、味、云々に、多大な影響を及ぼすと思うのです。科学の難しい話や、文化や、哲学的な話、或いは古典の教養に亘るような話になると、語学力は一気に50%を下回ってきます。
 しかし人の大切なニュアンスは、そんなところにあるものと思われるので、そこが一切切り落とされてしまうと、かなり寂しいものがあります。時間を見つけては先ずはマーク・トウェインを読み、現地小学生程度の単語力は養っていきたいと、そう思っています。まぁそんな重苦しいことを考えを抜きにしても、マーク・トウェインの短編は掛け値なしに面白いものです。私はやんちゃが大好きなので、そんな思いを想い出しながら、少しずつ読んでいきたいと思います。

もとの記事はこちらから。
http://www2.monex.co.jp/monex_blog/archives/008359.html
もちろん、松本大さんの英語力はぼくのそれとは比べものにならないくらい高いものだと思われますが、そんな方でもこういったことを感じられるんだなぁ、と思いました。
普段の何気ない会話でちょっとした冗談を言ったり、プレゼンを滑らかにするためのちょっとした表現だったり、そういったちょっとしたことが非常に重要なのではないかと思います。自分で言えたり、相手のニュアンスをきちんと感じ取ったり。そして、それが自由にできるようにならないと、なんかむなしく、さびしかったりするのです。
もちろんビジネス上のコミュニケーションを英語でやれと言われれば、昔と比べればずいぶん上達した気もしますし、ある程度自分の意志は伝えられる気がします。だけど、人と人のコミュニケーションって、それだけではないですよね。ぼくの場合、日本語を話しているときのキャラと、英語を話しているときのキャラがけっこう違っているのではないか、という気がします(実際のところよくわかりませんが)。パーソナリティって、個人特有のものだと思いますが、その表現ツール(今の場合、言語)が原因で、きちんと伝えられない場合、ゆがんだ形で伝えられてしまうのだと思います。一方、相手の言っていることをニュアンスまで含めで理解できないと、コミュニケーションがぎこちないものになってしまいます。ぼくの場合、英語と日本語でこの差が非常に大きい気がします(まあ、日本語もあまり得意ではないのですが)。
最近、受けたコーポレートレピュテーションの授業で、MBSで研究、開発されたCorporate Character Scaleというものを勉強しました。簡単に言うと、企業の特徴を、人間のキャラクターを表わす形容詞で表現しよう、というものです。具体的には、以下の7つの次元で数値化を行い、企業の特徴を理解しようというものです。
以下の単語、どのくらいわかりますか?

  1. Agreeableness
    • Warmth
    • Cheerful, Pleasant, Open, Straightforward

    • Empathy
    • Concerned, Reassuring, Supportive, Agreeable

    • Integrity
    • Honest, Sincere, Socially Responsible, Trustworthy

  2. Enterprise
    • Modernity
    • Cool, Trendy, Young

    • Adventure
    • Imaginative, Up to Date, Exciting, Innovative

    • Boldness
    • Extrovert, Daring

  3. Competence
    • Conscientiousness
    • Reliable, Secure, Hardworking

    • Drive
    • Ambitious, Achievement Oriented, Leading

    • Technocracy
    • Technical, Corporate

  4. Chic
    • Elegance
    • Charming, Stylish, Elegant

    • Prestige
    • Prestigious, Exclusive, Refined

    • Snobbery
    • Snobby, Elitist

  5. Ruthlessness
    • Egotism
    • Arrogant, Aggressive, Selfish

    • Dominance
    • Inward Looking, Authoritarian, Controlling

  6. Machismo

  7. Masculine, Tough, Rugged

  8. Informality

  9. Casual, Simple, Easy going

もちろん、辞書を引けばその表面的な意味は載っているのですが、これらの語に対するぼくらの理解(その語に対するイメージ)と、ネイティブの理解がどの程度一致しているのかはわかりません。このあたりの微妙なニュアンスがわかるようになるためには、松本大さんがされているように、地道な努力を続けていくしかないんでしょうね。
最近は、単語の意味って、「こういう時にこういう単語(表現)を使うんだ。へぇ~」という経験の蓄積効果でしか習得できないのではないかと、思ったりします。もちろん、固有名詞は別ですけど。
英語(に限らず外国語)って、難しいですよね、ほんとに。
(参考)
Corporate Reputation および Corporate Character Scale にご興味のある方は、以下のテキストをご覧下さい。
Corporate Reputation and Competitiveness
Gary Davies Rosa Chun Rui Vinhas Da Silva
041528743X

6 件のコメント

  1. 投資一族の長 返信

    確かに、キャラは変わるな。オカマ言葉の外人は日本で見かけたが。
    こんな難しい単語を使って話すことはないけど、言語に障害がありながらも、頭(数学、音楽などの概念)で繋がってると嬉しい瞬間無い?
    逆に、日本人同士でも会話が通じないことも多々あるじゃない。

  2. yokoken 返信

    投資一族の長さん、返信が遅くなりましてすみません。
    その気持ち、すごくわかりますよ。数学にしろ、ファイナンスにしろ、概念をお互いが理解していると多少言語的に厳しくても分かりあえることってありますよね。
    確かに日本人同士でも、概念理解していないと会話は通じませんね。

  3. 井口篤 返信

    確かに。言語的にはお互いあまり理解しあってないのに、何となく同じことを話してるんだろうな~って思うことってよくあるよね。とくに、英語を母語としないもの同士のあいだでは。そうすると、特に第二言語を話すというプロセスにおいては、概念が言葉に先立つんだろうか。言葉は概念を表すものなのだろうか?
    単純で図式的な話になるけど、こと第二言語習得に関しては、やはりシニフィエ(意味されるもの)がシニフィアン(意味されるもの)の先に来るのかな。ポストモダンな文脈の中では、絶え間ないシニフィアンの戯れ、とか言ったりするんだろうけれど。ま、こんなの極論だよねぇ。

  4. yokoken 返信

    > そうすると、特に第二言語を話すというプロセスにおいては、概念が言葉に先立つんだろうか。言葉は概念を表すものなのだろうか?
    ぼくはあまり難しい話はよく知りませんが、第二言語に限らず、まず概念があって、それをアウトプットするための一つの手段が言語なのではないかと思います。どれくらい効率よく伝わるのか不明ですが、例えば絵を描いて伝えるというのも一つの方法だろうし、、、
    言葉は物すごく詳細を伝えることが可能な手段だと思うけれど、その人のボキャブラリーによっては表現力がかなり異なってくるんだろうと思います。同じことを感じ、同じ考えを持っていたとしても、ボキャブラリーがないと適切な表現ができずに、100%は伝えきれないのかな、と思います。一方、受け手側もそのボキャブラリーをすべて理解できることは少なく、実際に理解できるのは一部減少してしまう気がします。
    シニフィエとか、シニフィアンという言葉は初めて聞きました。

  5. 井口篤 返信

    ごめん、「シニフィアン (signifiant)」は「意味するもの」です。
    >第二言語に限らず、まず概念があって、それをアウトプットするための一つの手段が言語なのではないかと思います。
    いやまったく、そうだよねえ。少なくとも実践のレベルではそうとしか考えられない。
    しかしその一方で、我々は言語という馬を完全に乗りこなすことができなくて。
    何か言った途端、言葉は我々の元を離れて飛び立ってしまう。独り歩きしてしまう。
    我々が何らかの発言によって何かを「意味・意図した」としても、それが他人によって元の意味・意図どおりに受け取られることなんて稀だし。
    例えば、発言者が (A) ということを意味しても、聞いた人が (B) という意味に理解してしまって、それを是正するべくさらに発言者が説明すると、必ず何かを付け足してしまって、(A’) になってしまう。そうすると、今度は聞き手は (B’) とか (A”B”) (なんでもいいけど)などという受け取り方をするかもしれない。そしてそれを聞いた発言者は・・・。つまり、元来の「意味・意図」を究極的に確定することはほとんど不可能かもしれないし、当の発言者にも実のところ分からないかもしれない。言葉は常に、話者が意図した以上の余剰を抱えていて、我々は何か言った途端、新たに予期せぬ何かを付け足してしまう。そのような状況の中では、元来の意図・概念よりも、解釈し続ける行為、もしくは言葉そのもののほうが際立っているのではないだろうか。ここにあるのは解釈の無限の連鎖なのではないだろうか。
    いえいえ、もちろんそんなことはないでしょう。こんなこと言ってると、これは言語学・哲学のいくつかの理論を杜撰に単純化してるだけになっちゃうね。抽象的過ぎる。
    社会生活は、話者同士の間に「A は B ということにしよう」などという、ある程度の了解がないと成り立たないわけだし。「いや、A は C でしょう!」という輩があまりに度々いると我々の日々の生活に支障が出てくる。いくら疑い深くたって、電車の時刻表を疑う人はそうそういないし。(あ、でもイギリスでは疑った方がいいか?笑。)とはいえ、了解の範囲はコンテクスト(時代・地域、年代、階級、性別など)によって大きく異なってくるし、だからこそ問題なんだけど。。。
    ごちゃごちゃ言ったけど、概念を表すための手段である言葉そのものも、じつはままならない存在であって、おいそれと概念に従属したがらないところがあるのではないかな、ということが言いたかったわけです。
    極論だけどね。それに、解釈行為もできるだけ「正確な」言葉使いと豊富なボキャブラリーの運用に依拠しなければいけないという点では変わらないわけだしね。。。頭に思い浮かんだことを言葉にするってほんとに難しい。第一言語・第二言語に限らず。

  6. yokoken 返信

    > 我々が何らかの発言によって何かを「意味・意図した」としても、それが他人によって元の意味・意図どおりに受け取られることなんて稀だし。
    おっしゃる通りだと思います。この稀具合が、母国語かどうかで大きく変わると思います。話者が相手に自分の意見なり考えを伝え、それに応じて相手がリーズナブルな返答をしてくれるかどうかで、自分の意図が相手に伝わったかどうかを判断することができると思います。そして、母国語の場合は、日常的なコミュニケーションであれば、たいていの場合問題ない返答が返ってくるので、ほぼ問題ないのだと思います。
    一方、話者のいずれか、もしくは両方にとって、外国語(第二言語?)でコミュニケーションする場合には、この理解度が低下するため、うまく伝わらない可能性が高くなり、コミュニケーションがうまく取れないことが多くなるのではないでしょうか。
    「概念を表すための手段である言葉そのものも、じつはままならない存在であって、おいそれと概念に従属したがらないところがあるのではないかな」
    というあたりは、ぼくは特に意見を持っていませんが、例えば日本人が持つ概念があって、それをもとに言語が発展してきたのではないかと思います。そういう意味において、日本人が持っている概念の集合と、(例えば)イギリス人が持っている概念の集合というのは異なっていて、それゆえに日本人が英語を学ぶのは難しいのではないかと思っています。つまり、日本語のある単語に相当する英単語を見つけるのは、フランス語と英語の間でのそれと比べて難しいのではないかと思うのです。
    なんか少し話がずれてしまいましたね。すみません。

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