2週間くらい前に、英語教育というエントリを書きましたが、その続きです。英語教育について思っていることをただ書きます。
こちらに来て思ったのは、(当たり前ですが)英語は英語のまま理解することが重要であると思いました。リーディングにしろ、リスニングにしろ、英語を英語のまま理解するということができなければ、スピードにはついていけないと思います(ぼくはまだついていけてませんが、、、)。
要するに何を言いたいかというと、母国語である日本語世界と外国語である英語世界をいちいち対応させない方がよいのではないか、ということです。例えば単語ひとつ取ってみても、この単語が日本語のこれに相当する、といった1対1の関係は基本的にないと思っていた方がよいと思います。例えば、日本語で「食べる」と言ったら、いわゆる食べるという行為を表わすと思いますが、英語であれば「eat」「have」「take」などいろいろとあります。逆に、「have」なんて動詞は様々な使い方のある動詞ですから、「持つ」とか「食べる」という意味だけ知っていても、不十分でしょう。「have」という単語の意味を日本語だったらこれに対応する、とかって覚えるよりも、もっと抽象的に、概念的に理解することが大切なのではないかと思います。
他の例としては、「discipline」などもそうでしょう。未だにいまいちピンと来ない単語の一つです。手元の英和辞典(ジーニアス)によると
1. 訓練
2. 規律
3. 懲戒
4. 学科
5. (俗)薬(やく)
などと意味が書かれています。一方、英英辞典(Oxford Advanced Learner’s Dictionary)によると、
1. the practice of training people to obey rules and orders and punishing them if they do not; controlled behaviour or situtation that results from this training
2. a method of training your mind or body or of controlling your behaviour; an area of activity where this is necessary
3. the ability to control your behaviour to the way you live, work, etc
4. an area of knowledge; a subject that people study or are taught, espacially in a university
などと書かれています。英英辞典を使うとなんとなくニュアンスを理解できる気がします。頭で理解するというよりも、漠然とでいいからこんな雰囲気の単語なんだな、と肌で感じることが大切な気がします。
ということで、何が言いたいかというと、中学、高校と英語を勉強する際によくやっていた英文和訳の練習というのはあまり意味が無いのではないか、むしろ弊害の方が大きいのではないか、という気がするのです。つまり、これは英語の世界を無理やり日本語の世界に変換する作業です。英語教育を受けるすべての日本人を翻訳家として育てたいならともかく、英語を使った生活において「英語を日本語化する」という作業はまったくといってよいほど必要ないプロセスだと思うわけです。英語は英語のまま理解できて、英語でアウトプットできればそれで済む話ではないでしょうか。
もし普段からインプットされた英語(リーディングおよびリスニング)を英語のまま理解し、英語でアウトプット(ライティングおよびスピーキング)するようなクセがついていれば、
英語 -> 日本語に訳して理解する -> 日本語で考え、答えを用意 -> 英語
といったプロセスを経る必要はなく、
英語 -> 英語のまま理解する -> 思っていることを英語でアウトプット
となるので、レスポンスが速くなるのは明確です。
例えば、友達と会話するときも英語で聞いて、英語で話すだけですから基本的に日本語を介在させる必要はありません。インターネットでなんらかの申し込みをする時も、英語の申し込みフォームを読んで理解し、英語で記入するだけなので、日本語化するという必要はありません。
つまり、中学校や高校でさんざんやってきた英文和訳という練習は必要ないのではないかと思うのです。例えばリーディングの問題なんかでも、この人がきちんと理解できているかを問うのであれば、英語で質問文を用意し、英語で答えさせればよいのではないでしょうか。もちろん質問は、本文を理解していなければ答えられないものにする必要があります。ただ、英語で問われ、英語で回答できさえすれば問題ないのであって、それをいかにまともな日本語として理解するか、ということは重要ではない気がするのです。つまり、中間試験や期末試験などの筆記試験も、問題文をすべて英語で書き、答えも英語で書かせるようにすべきだと思います。
もちろんこういったことを書くと、仕事で英語を翻訳する人はどうなるんだ?という声が出てくるかもしれませんが、翻訳の仕事をしている人は英語をきれいな日本語に変換するという特殊な技能を別に訓練すればよいだけの話で、日本人全員がその訓練をする必要はないのではないか、と思っています。
例えば海外と関わる仕事をした場合を考えても同じことです。英語を話す人が一人入った瞬間、ミーティングの公用語は英語になるかと思いますが、英語で聞いて英語で理解し、英語で発言できれば事足ります。また、最先端の情報を求めて海外の雑誌や論文などを読む場合も、英語で理解できれば、それで事足ります(つまり、日本語化する必要はありません)。
ちなみに、この話は以前からなんとなく考えていたのですが、なんであらためて書こうかと思ったのかというと、昨日奥さんからこれに関する話を聞いたからです。奥さんは、英語のマンツーマンの授業を受けているのですが、その先生はイギリス人でノンネイティブ(特に東アジア?)を専門に英語を教えている人です。この先生、以前(10~20年ほど前)、ギリシャで英語を教えていたことがあるそうです。で、奥さんが英語の勉強方法についてこの先生と話をした際に、当時ギリシャではかなり少なくなってはきていたものの、「まだ英語をギリシャ語に翻訳する練習をさせていたわ。これは英語を学ぶ上でワースト1の方法なのに。まさか日本ではそんなことやっていないわよね?」と言われたそうです。
まあ、これ(ワースト1かどうか)がどのくらい確からしい話なのかわかりませんが、ぼくの実感とドンピシャだったので、これは書かねば、と思って書いてみた次第です。
どう思われますか?
日常会話を中心とする一般コミュニケーションレベルの話と、学術・専門分野で使う場合では重心が変わるかもしれないという気もしましたけれども、これはものすごく面白い論件だと思います。
ありがとうございます。
基本的に、どんなシチュエーションにも耐えられる英語力を身に付けるのは難しいと思います。日本に、将来のビジョンとかが明確にあれば、どんな日本にしていきたいか、どんな語学力を持った日本人を育てていきたいか、という方向付けが自然となされ、教育の在り方もそれにそったものとなるのかもしれません。しかし、現在の英語教育にはその根底となるビジョンのようなものがないのではないかと思います。
とりあえずは、一般コミュニケーションレベルに苦労しない人間を育成していくことが重要なんではないかと個人的には思います。